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斉藤よしまさシェフ
Words to Live by
By Judit Kawaguchi
Translator: Mina
Approved By Yoshimasa Saito


Kitchen Countryへ

現在85歳の斉藤よしまさシェフは、東京自由が丘のハンガリーレストラン、Kitchen Countryの創設者だ。彼の作るグラーシュ(タマネギ・パプリカ・キャラウェーを用いたビーフシチュー)はとても有名で、セレブ達でさえ、その料理を味わうために喜んで列に並んだものだ。斉藤氏はとても楽観的だ。氏は、かの悪名高いシベリア抑留において5年間も強制労働に従事し、過去5年においては、咽頭癌、肺癌との闘いの日々であったが、これらのどれも、氏の強い精神をくじくことはなかったのだ。

人は、皿洗いによって、料理人へと成長するものです。ここが一番勉強になる所。私は15歳の時から洗い場で働いていました。まずは日本料理店、次はフランス料理店のね。鍋底の残り物をなめて、味の勉強をしたものです。

人はどこでも同じ。皆いい人、やさしい人ばかり。人が悪いのではなく、政府が悪いのです。ソビエト人達だって貧しかったのに、我々に少しでも食べ物をくれようとしていました。見張りも皆親切な人ばかりで、我々の誰かが病気になると、額に手を当てて熱があるか確認したり、数日横になって休ませたりしてくれました。殴るなんて絶対にしませんでしたよ。

私の作った料理ではなく、ごはんを褒められるとうれしいものです。私の料理がおいしいというのは特別なことではない。ごはんが特においしいというのが、褒め言葉です。

味方だったのに、攻撃してきたんです。1945年8月6日に広島、8月9日には長崎に原爆が投下されました。まさにその8月9日、満州では、味方だと思っていたソ連軍が敵になり、我々を銃撃し、捕虜にするという出来事が起きたのです。非常に混乱した多くの日本兵は、抵抗もできずなされるがままでしたよ。私達は捕虜になって、シベリアのキャンプまで徒歩で強制連行されました。8月15日、日本は降伏し戦争は終わりましたが、私達は歩き続け、12月にシベリアに到着したんです。

結婚とは、個人ではなく、家族間の結びつきです。いつも私は、親戚全員に対して責任を感じていました。妻の兄弟が4人の子を置いて亡くなったときは、子供達が成人するまで育てました。それから、妻の両親は亡くなるまでずっとお世話しましたよ。

本物の人生は映画より素晴らしい。私は、東京屈指の素敵な場所、銀座のIrene’s Hungaria Restaurantで働いていました。天皇陛下とその友人達がテニスをしにいく時のお弁当を作りましたし、夜になれば、店の前に、GI、歌舞伎や能役者、著名な作家達とその外国の友人達、そして皇室の方々が長蛇の列を作っていました。1954年2月には、新婚旅行に訪日したマリリン=モンローと、夫ジョー=ディマジオが、私達の店に立ち寄りました。愛称モンちゃんは、映画で見るより、ずっと美しかったですよ。私は、料理でてんてこ舞いだったから、一目しか見られなかったけれども。

自由が丘は、手をつなぐために来るような場所でした。1960年4月10日、天皇明仁陛下が正田美智子様とご成婚なされてちょうど一年目、このレストランの開店祝いをしたんです。当時、自由が丘はおしゃれでロマンティックな場所でした。今もそうですけれども、当時は、酔っ払いの男さえいませんでしたよ。慶応ボーイが、私立大学の特別にかわいい女の子達を連れて、人目を盗んでは、ぎゅっと手を握り締めるような所だったんです。

笑いは最高の薬ですが、今は笑うと痛いのです。昔から妻はいつも冗談を言っていましたが、私はおもしろがっているところを見せませんでした。今は、以前よりたくさん笑っていますが、笑うと肺が痛むのです。

料理人は箸より重い物を持たないと、私は言ったものです。子供達をも腕に抱くことはしませんでした。既に肩の荷が十分にあったものですから。

水はそばにたくさんあったのに、いつも喉はカラカラでした。キャンプは世界最大の淡水湖、バイカル湖のそばでした。私達は配給される一日1リットルの水を、スチール容器に入れ、凍らないように体につけて保管しました。飲み水にも不十分な量だったので、顔なんて洗えません。お風呂は年一回だけ。一年間の364日は、汗、あか、石炭と泥にまみれ不潔な暮らしでした。

私の唯一の楽しみは日本を夢見ることでした。あと、一度女の子のシャツの中を覗いたんですよ。私達捕虜は、炭鉱だけでなく、材木を伐採したり、大工になってソビエトの農民の家を建てたりしました。農民といってもほとんどは未亡人で、卵やパンをくれたりしました。1946年、ソ連で迎える初めての3月でした。私達は梯子を上っていました。例の彼女は、おそらくポーランドかソビエトの捕虜で、白肌の若くてとてもかわいい子でした。その子はシャツを着ていたものの、下着を着けていなかったんですよ。そこでの唯一の楽しい思い出です。 

同じことの繰り返しでした。暗くなれば、外の採掘していた場所にそのまま横たわりました。帰る兵舎や家はなく、広い空が広がっているだけ。初めての冬、1500人中800人が亡くなりました。後、生き残った者が家を建てました。

時間は相対的なものです。厨房では一日はあっという間に過ぎていくのに、シベリアでは、一日一日が果てしなく感じられましたね。

戦後はもっと大変でしたよ。昔話の浦島太郎になったみたいな気分でした。日本は米国に占領されましたから、我々日本兵達は政府に見捨てられたのです。私たちは貧しく飢えてシベリアから帰還しました。政府は500円くれましたよ。

私たち夫婦は見合い結婚をしました。初顔合わせの時、妻は船と電車を乗り継いでやってきました。仲人とお茶とお菓子を食べた後、私は彼女を上野駅に連れて行きました。私は何も話さなかったし、手紙も書きませんでした。ただ一万円送っただけです。ささやかな額でしたが、彼女は受け取ってくれました。

私は東京で仕事が忙しかったので、自分の披露宴に出席できませんでした。仲人二人が、私の代理で北海道へ行き、妻の実家で開いた披露宴代わりの送別会に出席しました。当時は珍しいことではなかったんですよ。親戚が六、七十人集まって、彼女にお別れを言いにきたようです。彼女が東京に到着後、神社で挙式しました。

熟年離婚なんて滅茶苦茶なことです。離婚したいのなら、早く、結婚した直後にでもするべきです。そうすれば、また新しい伴侶を見つられるかもしれませんから。何十年も連れ添った人と別れるなんて悲しすぎます。まるで全人生が嘘だったみたいでしょう。

私にとって最新の電気機器を買うのが最大の楽しみです。最高の贅沢です。テレビ、トランジスタラジオ、ステレオ、洗濯機、電子レンジは出てすぐに買いました。テレビ番組以外のすべてのものは良くなりましたね。テレビ番組だけはテクノロジーが発展するほど悪くなるみたいだけどね。

並みな人生でしたよ。何も特別なことはしてません。ただ大好きな料理をしただけです。私は厨房で約63年間過ごしましたよ。

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テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

【2006/08/12 00:41】 | Words to Live By和訳(J) | トラックバック(0) | コメント(1)
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【2006/08/13 13:00】 | #[ 編集]
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